生きるヒント1

哲学。哲学・・・・私は唐突に先月からその萌芽が大輪の花を咲かせ続けている。威勢の良い修辞に飾りたてられたそれら断章の数々、それを私は自分なりに出来合いと雄弁の虚勢を用い切り張りし、都合よく、書いてきた。それが正統非ざるアウトサイダーの文学。その系統に属することだろう。はぐれやさぐれ、故に大威張りでいいたい。筋の通った勤勉一辺倒ではここまで成し得る人間ではなかった、と。しかし一抹の後悔も拭えない。学問という権威に飼い慣らされるための勉学もしてしかるべきであったと。今更なにを言おうと後の祭り。ご多幸あれと願う事しきりの未来とは、いとイマージュ、言葉、脳内対話入り乱れる争乱の脳漿から紡ぎ出されるものだ。我が生涯に露見しているアウトサイダーたり得た経歴にこそ芸術的指針は導き出された。だからこそ尊いと思しき言葉の意味を毀損し、改竄し、突拍子もない組み合わせの妙をたのしもうと心がけている今日この頃。

健やかな人間とは到底、言い難い個人の歴程から編み出した文章こそが世に出るにあたり、殊更、癖あるも味わいを醸し出す要素たり得るのではなかろうかと思えてならない。

憶測の域をでないが、ししとして努力に事欠くことはなかった事はいえる。遊ぶと同義のこの努力形態。これが一番、本項の枢要たり得た事実だ。遊ぶように人は学ばねばならないのだ。今記していることや、人生の周回遅れを取り戻すように直向きの読書。

以後の自分のクオリティライフを高め、暮らしの基盤を金銭面で扶余するためにも、もっともっと私は「遊ばねば!」

 

17・1・21   432

絢爛の美が破壊されてゆく様こそに、本当の美の光沢が一際、輝ける価値あるうつくしき運動的燃焼であるのかもしれない。金閣寺しかり。金に輝く屏風のごとくに屹立するものは、屍の世に倒される命運を秘めればこそ、これもまた更に本統の美しき様を心と現実に思い描くようである。

 

高邁な人間たらんとするものは、自他の境遇や運命に嘆き悲しむように多種多様な不条理に決して目を背けてはならない。人を進ませる明日への一歩は確たるものでなければ、容易に一日の重い扉を開くことは不可能だ。その非現実を幾ばくか現実に引き戻す力。それは自分の奥底から沸き上るように心の深淵に秘せられ、時として躍動せんとする、確固とした意志という力だけが、改善を期そうと躍起になるのだ。予測し得ないこの一日という不確実への飛躍。その重苦しい責務を君のたゆまぬ強大の意志は、担えるに十分の資格があるのだ。心にある能動的という光がすべての諸悪敵意を覆す源となるのだ。

 

私はランボーのように美を膝に座らせることができただろうか?

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その美を飼い殺しにはしていないだろうか?

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散々にいじくり回しその利点を矯めてはいないだろうか?

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いかに自分が思い描いた美を極限まで生かすことを試行したところで、いやもしや、彼を惨殺してはいないだろうか・・・・?

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偶さか、そうして栄辱が移ろう世の中の腑分けを迂愚にも、浅はかにも独善の認識で美という結晶を永遠に毀損していないだろうか?

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そうして私は未来へ、美の認識を歪解して伝えようとはしていないだろうか?

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本当に大切なものは美、そのものではなく、美を付帯された人間の心の襞ではないか?

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私にはわからない。

 

美について私は散々に述べてきた。正直、美というそれ。

私にも皆目、見当がつかないと言って差し支えない、神々しくもそれは称揚に値するも、皆目一致に査定されるわけではない「美」というもの。

万物の尺度である人間達の意見集約を図ることができぬ美というもの。在る一面に醜い漆黒のダリアを咲かせるそれ。しかしながらも、その暗黒面を美と見なす一群あり一様ではない美についての見解には私も微睡むように我が目を格式やら権威にまとわれた美術作品やら、・・・・・・

私は方々に彷徨かせることしきりなり。

本人の質を高めうる美。即ち観念的なる漂いしそのつかみ所のなければ実体としてあるわけでもないそれ。美とはなんぞや?うつくしきもの唾棄せざる地位にあるそれ。ああ、例えば、晴れがましき、古の歴史が織られた西陣織の着物を、ある人は因循を嫌う故に一顧だにしないこともあるだろう。興味関心沸かぬというものか・・・・・。

「新世代の人類」は往々にしてスマホ片手のきらびやかなる情報社会の奴隷だ。頑迷に画面を覗くをして古き習俗に目もくれない。そのような彼、彼女らの価値はひとえに物質を超越した価値観を有しているものだ。つまりは軽薄をして浮かれ騒ぐネットの乱舞の認識に腰を据えるという若人達。そうである以上、そこに根を張る権利を逸した確たる美はないも同然である。我々はいかに美を世から抽出するか?それ即ち空白の歴史に鼈甲やら彩り豊の花をして繚乱に空疎の時代を穴埋めするように。観念的な美をどうにか古き佳き因習の美意識を介した物質にて若者等の心を満たすことができるだろうか。

偏に価値観の違いは断絶の霹靂のようでもある。ちょうど、イギリスから来日したビートルズの長髪を、当時の前世代が非難囂々、悪習に満ちた眼で非難の槍玉に挙げたように、埋めることも叶わぬその海溝のように永遠という名の下、美を各世代の共通の世の俎上に載せると言うことは、さながら料亭にから出される新鮮なる一時に過ぎぬような活け作りのようであり、絢爛にも料理艶やかに寸間の心を満たすことだけを主眼においているような。

つまり美とは良くも悪くも一期一会の華やぎであるのではないだろうか?悠然の川の如くに人の心に発現する美。それは二度と同じものはない峻厳たる心の奥底に発露したような認識というものの気の迷いであり、他者にとってそれは醜きと思えてならないそれを賞賛するを是とする万古不変の意見の相違ではないだろうか。であるがゆえに人は様々にある自然に色とりどりの美を付帯できうる。正しくも人類に正誤在るが故に、華燭の意義は、人類の頭上に敬虔なる信心のように、心豊かにその美なるものが艶やかに推戴されているものだ。何がどうあってそれが美しきことであるかについて様々議論を交わすように、個人の精神の認識とは一様ではない。故に甲論乙駁であることが流体のような歴史というものに美を根付かせることが可能なのだ。固着した物体に美の精神を宿すことは不可能に近い。流れに揉まれる円やかな美。それが真実を抱きしめた美的精神というものだろう。さあっ毀損すべしはほかならない押しつけられた一個人の一面的な認識と言うものだ。今日、ビートルズさえ歴史に威風堂々、佳き時代を象徴し、古の栄誉に組みする存在であるのだから。皆皆、因習姑息に囚われるなかれ!全方位から美を眺めてみよう。例えば美術館の展示物が陰日向の配置にすら気を使う美というそれは、さながら、生体のように艶めかしい生き物のようだ。技巧秀抜の物体に意匠凝らすかのごとく吹き込まれ、また憑依されたかのように宿るそれ。かつ、そうであるが故に美とは移ろいゆく生活の一こまを切り抜き、そして美とは生け花のように限られた時間に咲いた優艶の認識の高揚というものだ。決して物体そのものに美というものはない。幽体のように衣替えをするように、時代ごとにある認識に霊魂のように宿り給うもの。それが美という魔神というものだ。

 

17・1・20

文章にも出汁がなければならない。

美味しい味噌醤油を引き立たせるための出汁が文章にも必須となる。味気ない文章とはひとえに旨みに欠けるスープのよなものだ。私たちは普段、なにを啜っているだろうか。味噌汁、ポトフ、それに添加されたカレーへと変貌することもあれば、時たま、ブイヤベースのように有名店まで出張って食べたくなる料理が私たちを囲うように存在している。考えてみてごらん。それらの肝心要は何だろうか?とね。

やっぱり塩だけの白湯に等しいものを出されたら誰だって顔を歪めるだろう。世の中には残念ながら料理の世界のように深遠さに欠けてしまうことがあるものだ。ネット、況や、現代のカストリ雑誌の「後塵を拝する」ものが平然と情報社会に屯している。正統の椎もなければ罵詈雑言の雨霰であることもあるけれど、一番に問題なのはそれらの不実の文化が一定数の人たちから称揚されているということだ。考えてごらん。料理に立ち戻ってさ。

正常心がある人がそんなものをおしながきから選ぶだろうか、果たして・・・・?

そういう正しい文書技法でもなければ真実味も薄い。そのような料理が人前に出せるだろうか。だせやしないさ、そんなもの。でも非理在ることは世の定め。そういう不実の不味い料理に出くわしてもさらっと受け流す術を持とう。

君は惑わされないという自信は在るかい?常、必須の心がけとして人は吟味、精査したものだけを「口にして舌に乗せるように」。

人は常に激情という色を塗られた情報を信じてしまわないように、理性という心得がある。時に大衆に迎合していない隠遁者が遺した美味しい情報も、思考(嗜好)の筋肉を理性に育てられた君の判断というウエイトで鍛えながら、心がけながら、真実という叢の中の宝玉をかき分けながらのように、隠れた名店をも愛せる人となることも肝心だよ。雑多にもしかし、騒然の中にある至高の料理。理路整然とした思考の出汁の利いたスープのように、総合芸術の文芸に出会えるチャンスは常に君たちの行動にかかっている。けっして運を店名に任すなんてことないように。常日頃の心がけや所作、熟考に時間を割いて、より良い生活を君たちの暮らしに根付かせるように、精妙無比の思考の舌を持ち、何気なく惚けたようにマンガアニメなどの惰性で一日を「殺してしまうより」、その日、一日の質を格段に確実に高めててゆこう。人生は料理のような哲学だ。味気ない毎日の足下の生活をしっかりと考察する事を機転に、そこから無限に敷衍する仕事や、恋愛や、育児等をしっかり将来のことを見据えることが誰だってできると私は信じている。難しい事じゃないさ、難しく考えることが問題だ。君ならできるゾ。