生きるヒント2

美に囚われるとは実体に嫌われるというような感じだろう。現実の醜男に誰が愛想を向けるだろうか?そういう風に美醜とは悲しくも、非道にも、非理直曲をして隔てられる道徳のように不条理にも事象を峻別してしまう運命を宿している。それが世の習いだと今更言うまでもないだろうさ。人は幾世紀にも渡り、うつくしきことへ礼賛を惜しまなかったものだ。

 

朝目覚めれば心地よい。夜目覚めれば気持ち悪い。同じように人の感情もそう区分される。恋人同士がそうだ。出会いが鮮烈あるが故に、別れ際ほど離別の嘆に苦しむ。人の感情は移ろう天気、秋の空、猫の目。そのように一様ではない感情の季節があると認識して結構だろう。それが、人の性だ。そうでなければたとえば小説、戯曲、ドラマに・・・・、必須の情感の空を汲み取り、斯くも綺麗に物語に仕立て上げることはかなわない。その酸いも甘いも色とりどり、不揃いの果実である人。だからこそ個々の人々の価値はそこにあると言っても過言ではないものだ。

 

真実は事実により深く考察される。果ては事実の重みに真実は絞め殺されてしまう。

 

17・1・16   424

如何に巧い修辞でも一方で詭弁の誹りは免れないだろう。それが人生ならなおさら・・・・、金持ちを憎む、そして才能や知能を憎む群衆にさらされるように、巧く粋すぎる隠喩とは、狡猾に世を渡るを無理とする場合がある。

無知の一群の大衆に抑圧されてしまうのだ。才能然り、才媛然り。というふうに。憧れ故の反発がある。

 

愛とは後戻りできないものだし、そしてそうであるからこそ愛という名は美徳の薫風を纏う命運を課せられて久しい。愛。それは演壇にたつ可憐な乙女だ。美声よし、容姿良し、そしてまた散り際もよし。愛とはさながらたった一夜だけに咲くサガリバナのように・・・・・。

 

懐中電灯一つとっても、様々に光彩やら光量の多寡があるように、導というもの一つとってもそれは様々・・・・、自らの希望と世の現実とのハマり具合である凹凸をきちんと顧慮しよう。そうして人は待望の大輪の身をこの世に咲かせる。

 

ひとえに希望の虹は架かるべくして架かる。雨上がりの人生の空に。そして地がかたまりゆくのだ。悠然と未来設計を引いて闊歩できうるように。

 

自分は如何に生きるべきかを考えるとき、よく他人の努力をそのままに自らの人生の指針に用いようとするが、それはさながら、自分の体型に合わせないまま服選びをしてしまうようなものである。往く道を見定めぬままに突っ走る熱情のようにそれはやがて運命に焼亡してしまう。

 

人生の備忘録とは自分の血で記された歴史書だ。奥深いそれが子々孫々に繋がり行く。

 

この生、悔いなし。いえたらいいな。いえないほどに苦痛を纏っているけれど、それだけに自分の生き様に刻印される味わい深い蘊蓄は偏に美味しい。

 

華々しい異性に人生が恋いこがれる女学生のごとき純真の命にこそ美は栄えある鼓動を灯される。

 

知恵者は生き方上手。無知者は人生上手。この境目にある人物に人ははまりたいものだ。

 

私たちは知ることをもって無知を知る。

 

美に対しての基準とはひとえに主観的憶測が用いられるし、そして客観の目によりそれらは時折灰燼に帰す場合もある。が、ご本人たちの魂には未だ美がともされ続けているものなのだ。意に介さないほどの美が案外、後年に壮大の調べを奏でていることが多い。今日に撒かれる美の種は現在進行形であるやもしれない。

 

悲しきかな、美に対して人類は燃油とする我が人生を捧げた。

そして大いなる人生の有閑をその美という祭壇に捧げ尽くしてすらなお、美は飽くなき食欲をもって尚もまた、その他大勢の人生を食らうことを虎視眈々と見据えているものだ。

 

芸術に身を粉にする人生は華々しい。しかし実生活は見窄らしい。

つまり華々しい実生活に芸術の神は舞い降りることはないのである。

 

人生は閃光のように光り輝いてついえる際にこそ有意義の一瞬が光るものだ。

 

我々はもっともらしい理屈をこねて戦争を始めるがもっともらしい理屈をこねてさえ戦争行為を止める勇気を持たない。

17・1・14  409

 

大いなる愛情とは大いなる理想。その空しさを身をもって無惨にも知るとき、人等は知るのだ、大いなる実利とは大いなる時代。であると。

 

英国の美しい薔薇にはトゲがあるとは、日本的にいえば「桜の宿命、潔し」。というようなものだ。花散って風情という余韻を残そうとしてもそれは無理からぬこととはならない。実体を愛することしか人類はできない。建前だけを愛することは日本において究極の理想ではあるが、武士は喰わねど高楊枝で全時代を通せるものではない。気迫で飛行機を撃墜しようとする事のように空疎だ。

 

誰彼かまわず愛情を向けるとは八方美人もいいとこだ。専一に一つを愛する能力こそに人は他方の愛情の根底を理解することができるというものだ。

 

普遍性という愛ほど虚ろで実体を持たないものはない。神の如くにそれは朧気の蜃気楼というものだ。

 

愛し愛されるとは前門の虎。後門の狼である。「身体窮まり」退っ引きならない。引くにも引けず、さりとて盲目にて前進すら叶わずに・・・・・。

 

自らの償いが本当に償いと見なされるようになるには贖罪を必要とする対象の「度量衡」に左右されるものだ。非情にも自分の「本意の深さ」など度外視される運命にある。然し、赦しを得ようとする行為そのものに確たる価値がある。

 

美には移ろうという宿命の作用をして、川の如くの生の岸辺に色映ゆるものだ。

 

我々は知るべきを知らず、知らぬべきを知ろうとしてやまない。

形骸、定型化した勉学がそうであるように、人生を知るということはまさしくその逆転だ。

 

ある一群のある群衆、それら我々の自己流なる生活。その建立したかのごとき尊い文化というものは、けんもほろろに否定されればされるほど強靱に自分達の心に深く根付く性質を持っている。

 

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成功とは愛情だ。だが皆それを欲しがるが、実のところ、愛情を抱くその課程こそ尊い。成功という頂に登攀しきれば後下るしかないのだから。

 

愛情という魔神。それは人をサタンにも変容させるものだ。サタン、すなわち嫉妬という本心への脱皮へと。それは邪にも「厚化粧してはばからない虚飾な人間性」というものを勢い、一皮剥かせるのだ。

 

人を愛し愛されるという関係に打算のない純粋性を保ちたければ、奈落という貧窮に陥ることだ。そこではもはや、愛以外に頼れる伴侶は存在しないからである。

 

シモーヌ・ヴェィユ曰く、

「他の人たちがそのままで存在しているのを信じるのが愛である」

ごもっとも。これが誠の寛容精神というものだ。近頃のポピュリズムの根幹にあるもの、・・・・それとはちょうど真逆である。さまよえる流浪民の、それ以前のポートピープルであれ、彼らの体には個々の魂に宿したように確乎不抜の文化が、その生体の内に脈打っているものだ。彼らにとって、逃避行の行き着く先であれ各々の「不変性」を保持したいと願う心を他者に類する豊満なる自国民は受け入れなければならない。法律、風習、道徳観念等々、相容れざるを容れるものが本来、命の形というものだ。様々な文化の息づく社会は森のごとくに。異文化コミュニケーションの共鳴音をさえずりにその森は時代の変遷に彩り艶やかな変幻の妙を次世代へのさらなる土壌となしている。異だ、異端だ、等と偏狭の眼差しを向けようものなら、それ、自己自分の文化の否定なのだ。大切にしなければならないその寛容の光のテラスに人類はたちつつ、その融和の愛情精神に則り、人類は常、受容、変革を糧に進化した動物といっても過言ではない。異端たる彼らとの”心”の親和性を何よりも大切にしなければ、さながらこれまでの繚乱にも彩なす文化の変遷をむげに唾棄してしまうようなものだから。

誰とて精神を鎖国させてはならない。

 

17・1・14  396

愛はさながら真砂なり、

愛は砂漠になるものか。オアシスとなる人はいる。

 

人生にきしみがでれば、やみくもにベットを軋ませる前に自己修正のすべを持つべき。

 

夜に逃げこんでもいずれ白々夜は明ける。生きねば・・・・・・少年よ。

 

誰にも縛られたくないならば自由の鎖を用いて自由という刑罰を縛る側につけ。

 

夜の校舎窓ガラス壊して勉学の答えが見つかるくらいなら人類に悩むべき諸問題などこの世に存在しない。

 

15の夜に家出すれば戻るべき家はないと思え。

自分探しの旅に出口などない。やり場のない気持ちをブチマケるくらいなら頭を使うこと、即ち自分の世界へ自由の翼を羽ばたかせるように空想を抱くべきだ。空想を貪ろうが他人に迷惑かけることなどない。悪いアクションよりは・・・・・。

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センチメンタルとはゆきつく果てに煮詰まり、とうとう、存念として固執した偏執愛の残滓であり、字面にさもありげな感受性豊かな感傷というものはもはや理想から剥離してしまい逸失しているも同然。言の葉に秘せられた清廉という神話は崩れて久しいのだ。

 

我々は通り一遍、知り尽くしたと思える精神の裡に潜む本能を知らない。

それは猛々しい程の熱情を秘めた恋心というものであるにもかかわらず。

 

美にひざまずく時、人は自由意志の奴隷だ。

醜にひさまずく時、人は束縛精神の墓に入る。

美醜に人が捕らわれる時、もっとも必要とすべきは他者による冷や水なのだ。

 

主観にも通じる観念という認識に捕らわれるとは、即ち言いふらすような他者の意見に隷従することだ。おのが人生の生き方にすら関与するそれは断じて破却しかつ、自分の生き方を塑像する上で反面教師となし、そして、自分の信念を自らの足で建たせてしかるべきだ。

 

美とは自分の奥底に秘めた無垢の観測だ。誰彼とて指図されずにあるそれとはまさしく宝物殿という自分の中の認識という至宝の中の秘玉だ。

17・1・13         385

人間クリアな視界を得なければ物事は始まらぬ。今までの惰弱な認識という日がな一日の順延は唾棄してでさえ・・・・。クリアなる視界。それは思考の眼鏡だ。曇りなき眼を持てども日々の生活に於いての汚辱のレンズという曇りあっては視野も見通せぬどころか目に悪いことしきりだ。更新される新品のレンズという新鮮な「思考」に我々は心新たに新鮮なる視野を得なければならない。乱雑に生活をおくるということで容易にその眼鏡の質を落としてはならぬのだ。革新という眼鏡拭きと細微なる事象への取り扱いに傾注してこそ、我々の視野はおおいに広まる。尤も、我々のぞんざいなる認識という名の、謂わば眼ごと破却しなければならぬこともあるものだ。

 

哲学とは殊、精神を追いつめる。真理を煮詰めるが故に精神が根詰めてしまうものだ。「哲学とは曰く・・・・。心身の疲労に則する」という宿命の言葉で片づけるに簡単ではあるがしかし、人的精神を土台にしなければ思考もできぬ故に・・・・・。私が求める「範」は結局のところ悩みという坩堝に行き着いてしまう。これではいけないと思えどこれしか手法なき故に・・・・・。

 

彼はいた、彼は深刻に人生を考えることに躍起だ。彼の行い。それは無駄ではない。彼の存望をかけた戦のようにそれは尊い戦だ。彼の心は何人たりとて毀損し得ない宝玉なる時間の保持者だ。我々は彼の生き様について何ら語り得ぬ、彼の神髄にある心の中には。彼について語り得ない真理には語り得ない漂泊の生き様が我々には皆目検討つかぬが、彼は真に答を望むように彼の求めた生活と真理には我々が口を挟む余地はない。永遠の問答を彼は作りだし、そして世に問い続けるだろう。それは我々が知り得た答を超越したものを彼は持つ。そして彼はこの世にその歴程を他者の心に刻み行くために。

さあっ彼が残した事跡とは如何なる姿態をもつか、それは神の定理のように我々を捕らえてはなさない。少しでも理解し得るように我々は知識を蓄えてこの永劫の問答に光をさしこまななければ。だからこそ無窮にもにて知識は尊い。永遠の世に永遠の答を敷設するためにも。知ろうではないか!彼を信じ、尊び、彼を慈しむ為にも。