生きるヒント3

17・1・13     381

我々は混迷あるが故、生きる糧を掴む。それは生には必然の病に冒されるように、我々の心は常日頃、不断の世界をさまよう僕だ。付き従う運命に我々は子のように従順でなければならぬものだ。しかし尚、己の真髄を貫徹する生き方を所望する故に難解の道を人は往くのではあるが・・・・・・。

 

奔放なれ人よ。柔な生き様とは仕事のレールに準じるし、人は服従という理性の申し子だ。感情の越えるところに答えはある。すなわち情動の果てに発掘した真理へと人は志向するものだ。我々は自由への翼を持とう。如何なる世をも超越する大空への飛翔へと・・・・・・・・心弾ませて。

 

我々の理性は実のところ生活に囚われている抑制という日常の理性の産物だ。そうして人は段階を上るもしかし、理性に飼い慣らされているそのタガを脱ぎ捨て、純粋なる本心に照らされる感情の趣がままに行動を発すれば自ずと根底の生き方は希望に照応される。我々は理性の奴隷では気が済まず、常に、むき出しの情念の奴隷たれ。

 

認識に眠る理性はよく芸術を壊す。人知を越えた認識の外延を走る熱情のなせる業。それが芸術というものだ。

 

永遠の胸。それ希望。それは心に住まう情熱の意志だ。合理的精神にこころが飼い慣らされることがあっては人類の宝を逸するに等しい。

 

歌には理性を超越した感情の発露が深くメロディーに刻まれている。我々はこの心を深く認識し、かつ理性にとらわれない非日常の一齣を心に刻み芸術という人類の曲芸を理解しよう。理性を越える心は合理的精神にも勝る宝だ。その気概のような認識を大切にしなければ・・・・・・・。

 

自分をわかるということ

 

自分を知らない人間ほど愚かなことはない。自分を知ることがなければ世界を知ることはできない。自分が自分を用い、自分という存在を識るという確固とした認識は非常に深遠なのだ。世界という千里の道を踏み出す記念碑的第一歩が、まず自分を知るということにほかならない。世界の深淵をのぞきたくば、まず始めに自分の深淵を覗かねばならない。

自分を知らないとはさながらに外傷により指呼を断絶されるも、不自由でないと言い張るようなものだ。尊大という欠落を認識できないということは、「いたく」辛い。

思考も同様に、ある物事についての認識へも自分の頭の中の定規だけで事象を推し量ろうとすることのように偏屈この上ないものだ。

木を見て森をみないという諺がある。解釈すれば些末な事柄だけでかくも雲のごとき悠然な事象を推し量ってはならぬということではあるが、私はこういう風に聞こえる。

一本の木にすぎない自分の認識という自分自身の力量、即ち自分のスケールという尺度が、案外自分がねがうほどに成長していない。先ずは「存外、自分はいかほどでもない」と自認することが重要なのだ。

さらにこの諺にこう付け加えよう「木さえ知らねば森知らぬ」。

自分という一本木は驕慢にて矯めることがあってはならない。そうしてこの世のすべての認識という”壮大の森”が年輪のように着実と自分の年を数えれば数えるほど徐々にかいま見ることができる。年功によりやがてはハイビジョンの眼すら持つことも可能だ。

浅ましくも悠遠なほどの自惚れに必ず先立つものは厳然たる卑小の腕力だ。この世の中は残酷なまでに広い。自分を上回る力自慢が、そして実際に力が比べものにならないほどの人物が自分の考える頭の上に幾重にも幾重にものし掛かっているものなのだ。

間違えてもそれを転倒させる事なかれ。自分が自分の力に親身になって考えて得た正しい自他の認識を定礎に世界は無限のように広がりゆく。正しい現状認識は神のごとくに尊い。たとえ君が神を信じずとも、定礎とする正しい認識を皆は信じているのだ。

 

 

子にとって親は教科書のような存在だが、残念なことに彼らは教科書の通過儀礼である検定を経ることがないのである。

誰とて人間は男女一対組めさえすれば子を自由意思の名の下に持てる。金銭的苦難さえかえりみられず、時として勢いで、つまり親のさらに上の親の忠言にも耳を傾けずに、子を持つという営為が建設的に人生構築の一枠としての養育とすらならない場合がある。残念にも誰であれ子を持つという無比の権利は保証されている以上、子を持つことに現代、人頭税もかかる訳なく任意に持つことができる。一般人の観念では誰しも、手探り状態かつ一時の戸惑いを覚えるが、良識の力で相応に高いハードルを越えることができる。が、非良識なカップルは子育て曰く、「敷居が高い」ことを重々認識していないし、崇高なるこの営為に尊崇の念も沸くことなく、子を持つという現実の苦しさに目もくれないことがある。脈々とこの血と認識は薄められずに代を重ねる。自由恋愛主義の徒花といえば聞こえはいいがもう少しこういった「惨憺」を呈しないためにこの件について社会が介入する権利を付与してもいいのではなかろうか?いかなる親の子であれそれは何よりも人類の宝。それは社会総体にとり忖度のない至宝。汚されることがあっては社会の質も悪くなる一方だ。全体主義、ファッショでもないだろうこれは・・・・。上澄みも高貴で大切だが澱も着実に救わねばならぬのだ。無知という檻に囚われた非常識な親を良識の鍵を用いて救いだすためにも。

 

17・1・123    373

人間何でもいい。何か天職、天稟をもとう。物憂げな世に自らの生き方を提示するために、そうして自分の行く末に、自信を得るようにひたむきに何かに打ち込もう。自分の中にある英雄を見つけだす旅にでるように、そして来る死を忘れ、恐怖を彼方に退散させるために。人は誰しもに某かの得手があることは間違いないんだから。重要なのは経験値を積み上げることばかしではなく経験から鋳造した自分の宝を自分の腕に抱くことだ。何事にも健闘する精神を葬り去ってなならない。さながら十字路に立ち全方位に向かい言うのです。「いざ生きぬ、魂と肉体のために、自分という愛を守るために」と、いうように。巡り会う季節のようにチャンスも巡るものだ。そのみがいた腕でつかみ取る力を身につけよう。

 

 

自らに課られた使命は生きることだ。他者に指名された生き方、まして指名された死ではない。いきたいようにいき、そしてなるべく死なない程度に生を緊張感を持ち得てありきたりに花を添えるほどの活を求めることだ。

 

「若人よ。お前は災いを担えるか?世界を支えきれるか?ひと一人の愛を受け入れられるか?」このすべてに度合い、軽重はないのだ。大同小異の結果について責任を担える人間とは、数多の苦しみの世界に一つのささやかな幸福を与えるため、諸悪の問題に立ち向かう勇気を磨き、そして不磨の世界の認識に光を与える、限りなき永遠の胸を意力に掲げている。誰であれ、汚れた絆のようにそれは腐れ縁に近しい宿命というものを、各々の性情に隠されているようなものだ。それを不安なる生活から引き抜くがいい。さあっ ヒロイスティックなる野望に近づくがいい。己の存念を剥き出しにする事のできぬ輩にお前の命運を託すな。絶望の崖から飛び降り、そして希望の海に深く身を沈めるがよい。永遠の中の一瞬ほどに気高くお前の存在は永遠の美という世界の領袖にとらわれるだろう。

 

一生をいかに

自分をいかに

目的をいかに

輝かせるかに、

己の意味はそれらを照らす。

 

希望とは待つことで熟成するものだ。

「待て、しかし、希望せよ・・・・・。」という具合にさ、

 

子にとり親とは、教科書のような存在だ。ただ残念なことに検定を経ていないのではあるが・・・・・・。

 

人が宗教にかしずく時、果たしてそれは純真に神にかしずいているのだろうか?そうでなければ、それは自らの無知に節を屈している行為そのものだ。

 

潔く生を終わらせる人物は、美に対すする敬礼を心得ているものだ。

※今までの言質と正反対ではあるもののこれしかし、滅びの美学に対しての履行し得ない畏敬なのかも知れない。※

 

障害は認めることに意義がある。人が苦しみの中で吼えていることに耳を澄ませるように・・・・・自他を問わず。

 

「人生という学習」の始まりは哲学であり学習の終焉すら哲学の棺に収まる。

 

導なき故、人は未来に世界を導く力を鍛錬する。それはちょうど手探りの教育にも似て・・・・・。さながら常に変幻する子心を識るということが謂わば未来へと現在の私たちが送ることのできる最大の資産だ。ただそれは様々に包装してある。その袋を開けてみなければ子は解らないだろう。大人達の伝えた本当の意味を知るときに、子等は世代を跨ぎ、彼らの彼らによる彼らのための時代に立つのだ。そしてまた次世代を耕しながらも・・・・・。

 

真実は堅固。嘘は柔軟。その性質(たち)を組み合わせたものがせけんという刀だ。

 

普通の人が普通にいきることが栄誉への近道。

幸福の追求に王道はない。即ち、凡俗が 人よ一夜よの 花見頃。

 

寛容がそうであるように、人の余裕から愛は生じ、社会にあって”存在を許された弱者”へのいたわりというものの貧富を豊かさの指標とする。衣食足りなければ欠乏してしまうものは礼節だけにとどまらない。貧窮は諸悪の炉床なのだ。愛ですらその純粋さを保つということすら底辺では散々、その価値を生きながらえることなど不可能に近い。

 

白痴は白紙しか生み出さない。創造というものは彩なす知色(ちしき)のイルミネーションだ。

 

「学芸は長く人生は短い」

学問勉学もこの前者の定義に沿うが、残念至極。現代にあってこれ逆転して久しい。

 

「ああっ 何故?なぜひとは悩むのだろう?生まれてから死ぬるまで」

答えなきこの問いにはしかし、真理めいた教訓を与えてはならない。

悩める人、当人が当人の存在を大いに高める。故に・・・・。渇ききった心の保持こそ、人の生活と森羅万象を読み解くための営為への探求に力を与える。向上という力を。

 

叡智や物質、歴史等を未来へと導くとは子を導くということ。子は未来。未来は子。双肩にのし掛かる重み故に子は大人への階段を着実に足を踏ん張りながら上り詰めてゆく。急くようにではなくさ。

 

現実が冷酷故に、愛の希少価値は大いに高まる。かつて低まった試しはない。

 

354   17・1・11

不幸とはありえないほどの事実を認識させるための正直な友人である。

不幸という友人は嘘をつかない。

逆に幸福とはあり得ないほどの認識を事態と錯誤させる不誠実な詐欺師である。

 

人は何を則とするか?何に”準ずべき”か、善玉なる理想か、悪玉なる現実か?しかしこれだけは言える。この世には、善玉なる現実なぞ存在してこなかった。人は実利としての平和を恒久的に希求すべきだ。

 

純情という理念。ああっ、恋しくて恋しくて、どうにもならない。そんなとき人は神を信じ、そして神にひれ伏すが、一方、自らの感情という乱心の悪魔にも何ら顧慮せず付き従うものだ。矛盾に人は自らの意志を犠牲にする。成就させたいという理想を卑陋な事実の頂に戴冠させるために。

 

張り裂けそうな思い。言葉にならない言葉。それらを超越した悲嘆の事実は存在しない。真実の先を越す感情や願いなどないも同然に。

 

泣いてばかりいちゃ、目も疲れるものだ。本来の役目とは未来に曇り無き視野を脳に与えることが眼の役目なのだから。

 

どれだけ涙を流すとも過去は戻らない。どれだけ目に潤いがなかったとしても未来はやってくる。無情という時は無深慮にかつ感情をもたない。

 

「お前と俺なら何処でもついてゆける。不幸よ。不安よ。お前たちは俺と一蓮托生であるが故、どのような幸福へとも帯同を許される。お前たちはの幸福への通行手形なものだから。無くてはならぬぞ、決して」。

 

不幸のどん底には不幸をこれでもかと、これでもかとかみ砕いた事象が撒かれている。砂利のようにそれはきめ細やかなそれはさながら人生の枯山水だ。最早、後には、希望への反発しかない。人生に潤いを与える本当の景勝地が。

 

美には作用がある。人生と認識とをしならせる融通無碍の作用が。

 

美について人は何を言えるだろう。いわぬが花の美しさもあるものだ。