幸福論1

人と始終にわたり幸福追求が肝要であると見極めがついた。

人とはいかなる幸不幸の境地にあるものであれ、幸福の方を選び取るのである。別に面倒なことではない。覚悟して与えられた人生を生きてゆくのである。幸福を遂げずに満足するのは哲学者風情の戯言ある。

どのような場合であれ幸福を遂げるというようにする事など不可能だ。

しかし、誰であれ幸福が衆生のために絶対的にはいいのだ。

ひとかくも、不幸の深遠なる意味に理屈をつけがちだが、幸福になれずに生きゆく定めならば、腑抜けだ。ここが肝心だ。高邁なる人格であれば幸福を遂げられずに死んだとしても徒死にだとされても些かの恥辱にはならない。これ道をわきまえた求道者にほかならない。朝鍛夕錬。決意を新たなる胸に灯し、幸福が地に足ついて外道を行かず幸福の途を人は修めるのだ。         

 

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人間惰性ではつとまらない。 峻厳なる人生に突き出た巌があるように、ここぞとばかりに不幸がとっこつと突き出る場合がある。考えてもみれば人生とは長き旅路であり一時の苦難はとるに足らない。いけないのはその突き出た部分に人生の苦難を「象徴」するに人生の険難を見いだしてしまうことだ。一時の風は一時に我慢すれば大過なくすぎるのに、一時の苦痛や越えることを臆した絶壁を前にこれを針小棒大に人生破局のライトモチーフなどと恭しく「崇敬」するのは考え物である。人間苦難を糧にともその自己憐憫を惹起させ得る自慰ではいけない。越えるべきときにこそ越え往き、省みはせず人生は前進あるのみだ。不幸にとらわれて人事不省になる精神の波乱など要は自らの怯懦のケタタマしい増幅にすぎない。

自立し悔悟を矯め、そうして一本の大樹に育てゆく定めが各の人生に隠されていることを各の本分は知るべきなのだ。滅びの美学を筆に携え、軟弱を感傷にひたらせ、あまつさえその「美しき様」になにかと悽愴を描くことはあまりにも薄弱だ。そうではない。いかに生き、いかに幸福を邁進するかにすべてはかかるのであって今現在に沈潜しても未来は視野に這入ることはないのだ。過去にとらわれては未来は盲目になる。上を向かなきゃ星など見えぬ。鬱々とした心の病も転地療養をするには潔い精神の転換に要点があり、なにも身体を旅路に任せるだけではない。心を肉体から抜き去り、たとえるに、自宅にありながらも心を悠久の旅路に向かわせる有様がちょうどいいのだ。

そういう発想の転換とは卑近故に手に届かないものだ。なにも遠大な旅を往かんとし、旅装束の準備を尽くすより心を洗う一念を近々に打ちやられているような道端の何気ない石が実は煌びやかが覆されていて手に取れば美しき法面があり、それが実は趣がある有様を再発見する方が得なのだ。

遠大な射程はよくズレる。近傍であれば、正確無比だ。このように、心の抜き指す場所は近しき存在にて幸福の緒が賦されている場合が多々ある。

路地裏を往くがいい。道草をより多くするがいい。近道を憎むがいい。

そうすることで自らが何の意味を心に埋めているかが少しわかる。人々が希う富貴は実の所、自らの生き様を腐らせるものである。貴顕がすべての人の願望に託されないようではあるものの、心一つの持ちようで晴れがましい心身の身振り手振りが随意に貴顕を従える新なる己の位置づけが可能である。貧しくとも心豊にとは安易な逆説だが、逆説の域をでない。要は生まれながらの差異を覆すことは容易ではないが、心の改変にかけての篤き想いに新風を吹きすさぶ今のこの世紀がある。今は19世紀の門閥制度の時代ではない。真仮なりにも自由と公正を美旗に掲げた21世紀から次世代につなぐ世紀の胎動を我々は「地固め」しているのだ。幸福が富貴の差異でないことなどもはや暴かれている。幸福を追い求める人生はチャレンジを勇壮なものとし、不幸に没する人生は詩的精神の濫費にすぎない。釣り合いが大切なのだ。「過ぎ去る人もまた旅人なり」とは李白の詩にあるが幽遠の差異はひとえに自らの身の処しかただ。機敏に事を納め雄大に事を興すことが肝要なのであろう。なにかにつけて自己主張を尊ぶ今現代にあり、自らが心にしまう篤き想いを冷却させている節がある。渙発は貯めてからするべきであり、安易な自己主張は安易な請け合いなのだ。どのような世紀であれ中庸を尊ぶことにかわりない。自らの幸福は自らが編んだ思考の綱で目的へと這い上がるのだ。主観に頼る幸福を廃して、人生を味わい尽くすには己の本分をよく識り、他者の本分に介入しないことだ。共存共栄の理念は洋の東西問わず同工異曲なのだ。日本語を解するとは故あって日本国に生まれ出ずる宿命に身をゆだねること。そうして日本古来の因習を履行しつつも意図的破調を見つけ身につけることに怠らないようにしよう。

怠惰な時代に屹立する先覚者となり、次世代の架け橋になる信念があれば後先を省みない遮二無二の心意気もうつくしいのだ。

享楽の子供時代を脱し、目的を完遂する課程で幸せは衰滅しようものの幸福は後妻でもいいのだ。いつも心に楽しみを、いつも視野には旅の美を。いつもの習慣視点換え。心の新鮮なる眼は未来の空を見上げている。

私たちはいかに生きるかを考えるときにはまず幸福になる有様を惹起しよう。いずれ「倒れる運命」にある客観という価値観などあてにならない。自らの熾火のような微弱な心の炉も燎原の火のような幸福へ容易に乗り移るものだ。自らが第一に幸せを纏えば、他に差し向ける余剰などいくらでも捻出できる。天真爛漫が伝染するようなものと思えばまた人生も気楽に凪れゆき、行く先咲きで幸福の蜜は贋造されない価値があるのだ。